白 狼 伝



第六章



 限りなく闇に近い緑色の森の中を、ファールが走っている。
 途中、朝食と昼食は、足を休めずに摂った。
 麦粉を焼き固めただけの、日持ちはするが石のように堅いパンを噛り、水袋の中の水を口に含む。それだけの食事である。
 昨日の夕食の時には、さすがに歩を止め、道の端にあった倒木に腰を下ろした。そして、パンだけではさすがに体がもたないと思い、倒木に生えたキノコと、その樹皮の下にいた甲虫の白い幼虫を、焚き火であぶって口にした。
 ファールはシモンに、ひどく実用的な博物学――すなわち、森の中の何が食えて、何が食えないものかということを、みっちり教え込まれていたのである。
 キノコはともかく、幼虫は意外と香ばしく、美味とさえ言えた。
 そのまま、朽木の陰に隠れるようにして丸くなって眠り、日が昇る前に出発した。それが今日である。
 例の廃村を抜け出してから三日目のことだ。
 途中で、不注意な山鳥を、紐の両端に石を結んで作った簡単な狩猟具で捕らえている。この狩りの仕方は、ラグーンに教わったものだ。
 山鳥は、今日の夕食の足しにするつもりだった。
 が、ファールはまだ夕食にするつもりはない。
 強い力に引き寄せられるように、未だに、歩を進めている。
 すでに日は森の木立ちの間に隠れ、星が、すみれ色の空に瞬き始めていた。それでも、ファールは立ち止まろうとはしない。
 闇に対する恐怖が、なぜか薄れている。
 いや、そうではない。
 見えるのだ。
 昨夜から、どうも視界の様子がおかしいとは思っていたのだが、今、異変はより顕著になっていた。
 木々の葉や、道端の石を薄く照らす星の光が、緑色の輪郭となって、はっきりと識別できるのである。さらにランプを灯せば、今までより遥か遠くまで、昼のように明るく照らされて見えるのだ。
 自らの両目が、ひどく敏感になっている。
 その上、朝からほとんど走り続けているのに、まるで疲れを感じていない。
 無論、全力疾走を続けているというわけではないが、それでも、超人的な持久力だった。冒険者稼業に手を染めて以来、強行軍など慣れっこではあったが、さすがにここまで無茶をしたことはなかった。
 疲労も、闇に対する恐怖も感じていないファールだったが、焦りはあった。
 文字どおり、胸を焼くような焦燥感である。
 並の相手であれば、とっくに追いついているはずだ。
 たとえ相手が馬車であれ、この森の中では速度が稼げない。道が獣道に近く、幅が狭いからだ。
 考えられるのは、馬車につないでいた馬が盗まれた、ということである。
 すれ違いであるとか、茂みの中や枝道でやり過ごされた、などということは、ファールは思っていない。
 可能性を思いつかないというわけではなく、ティティスが行く手にいるのを知っているのだ。
 導かれている、と言ってもいい。
 ファールは、自分の現在の状態を、全く不自然だと感じていなかった。疑いを抱くことなく、大いなる存在に導かれている。それが、今のファールだった。
 そのファールが、さすがに今日のところはここで休もうかと考えた時である。
 行く手から、恐ろしい唸りが聞こえた。
 声の大きさからして、そう遠くではない。そして、それはもはや聞き間違いようのない、特徴的な咆哮であった。
(ワー・ウルフ!)
 ファールは、ほとんど何も考えることなく、地を蹴っていた。
 前方の濃い緑色の暗がりの中に、三対六つの、緑色に光る瞳がある。
 ファールの抜いた銀のナイフが、わずかに星の光を反射させた。



 その、同じ場所。
 翌日の昼下がりのことである。
 常緑樹の鋭い葉に、秋の乾いた日光が注ぎ、細い道に影を落としていた。
 昨夜、ファールが蹴りたてたのとほぼ同じ地面の上で、ラグーンは足を止めた。
 一定の距離をおいて、その後ろに従っているエスカも、歩くのを止める。
 エスカには、なぜラグーンが止まったのかがすぐに分かった。
 前方、五十歩ほど行った所の茂みから、人の手が突き出ていたのである。
 突き出ているというより、低木の向こうで倒れている人間の右手だけが、道の方に投げ出されているのが見える、という状況だ。
 この距離では、その手が、男の手なのか、女の手なのかということさえ、判別できない。分かるのは、乾きかけた泥でひどく汚れているということだけだ。
 注意しろ、とはラグーンは言わない。
 エスカ以外の他人がいれば、自分の命を狙う奴に注意しろもないものだ、くらいのことまで言ったかもしれないが、しかし、無言である。
 無言と言えば、ラグーンは、ファールが廃村を抜け出したことに気付いて以来、ほとんど口をきいていない。ただ、当然のように、聖地を目指して歩き出したのだ。
 ファールの行方に確信があるというわけではないのだが、心当たりはそれしかない。となると、ラグーンの歩みには全く迷いはなかった。
 そのラグーンに、やはり無言で、エスカが付いて来ている。
 風が、茂みを揺らした。
 見えていた手が、ほとんど茂みに隠れてしまう。
 ラグーンは歩を進め、見え隠れする手との距離を詰めていった。無造作に歩いているようにも見えるが、足の運びが今までとは違っている。いつ、どのように体重を移してもいいような、慎重な動きである。
 両者の距離が、十歩を割ったところで、手が、動いた。
 茂みの奥へ、ゆっくりと引かれていく。
 そして、茂みを破って上半身が現われた。
「ぬっ!」
 ラグーンの右手が、腰に差した愛用の長剣に動く。
 が、相手はワー・ウルフであった。片腕のみ、肘から先が人の形のままだったのだ。
 ラグーンは、弾かれたように後退し、銀のナイフを抜こうとするが、その動きは、一呼吸分だけ遅かった。
 ぐわっ、という声とともに、ワー・ウルフが突き出た顎を大きく開く。
 エスカは引き絞った弓から銀の矢を放とうとするが、ラグーンの大きな背中が邪魔になり、果たせない。
 ワー・ウルフとラグーンは、重なり合うように倒れた。
 ワー・ウルフの牙が、一直線にラグーンの喉笛を狙っている。
「ラグーン!」
 エスカの声は、悲鳴に近かった。
 次の瞬間、ワー・ウルフは激しい勢いで道の脇の大木に叩き付けられていた。鳩尾に、銀色に光るナイフが突き立っている。
 ラグーンは、無事だった。
 喉をはじめ、どこも傷ついている様子はない。
 見ると、ワー・ウルフの顎を、上から下に弓矢が貫いていた。銀の矢尻の弓矢である。
「エスカ?」
 ラグーンはエスカの方を向いた。しかし、エスカは弓と矢を構えたまま、首を振っている。自分が射たのではない、とその不思議そうな表情が語っていた。
「大丈夫かよ、あんた」
 第三の声は、頭上から聞こえた。
 驚く二人の目の前に、張り出した枝から軽々と降り立ったのは、しなやかな肢体の青年であった。
 その青年が、いささかわざとらしく、銅色に近い褐色の巻き毛をかきあげた。その下から現われた端正な顔と白い肌、そして紫色の瞳は、北方の森の民の血が、この青年の体に流れていることを示している。
「……とりあえず、礼を言おう」
 驚愕から脱した後も、どこか不審げに青年の顔を眺めているエスカをよそに、ラグーンが落ち着いた声で言った。
「野伏、か?」
 続けて、青年の持つ半弓と柔らかそうな革鎧を見てそう訊く。
 野伏とは、森林地帯などで、狩猟や採集によって野外生活を送る人々に対する総称である。民族というより、階層を示す言葉だ。彼らはその独特の価値観によって、耕地や、石造りの街を嫌い、城壁の外で生活をしているのだ。
 この時代に、城壁の外で生活するためには、それなりの覚悟と実力が必要である。だが、野伏の狩猟のための弓矢は、怪物に対する強力な武器でもある。さらに彼らは、森の中でも地の利を失うことがないよう、跳躍によって木と木の間を渡り移る訓練を自らに課しているのだ。
 農夫や、街の住民には、考えも及ばないような過酷な生き方である。しかし、野伏になるような者にとっては、土や石に縛られて税を納める生活こそ、理解の外にあるものだった。
 しかし、青年は形のいい眉をしかめて見せた。
「こいつ――〈遺跡荒らし〉には、そう呼ばれてたよ。人の名前を憶えようとしない連中でね」
 言いながら、左手で持つ半弓で、すでに絶命しているワー・ウルフを差す。
「けど、俺の名はレンティウェスト・トーエンクラディアミルニセニウス。〈野伏〉なんて粗雑な名前じゃないね」
「何だそれは……いや、待て」
 青年の名乗りに、ラグーンは一瞬鼻白んだが、すぐに気を取り直し、訊いた。
「呼ばれてた、ということは、あれはお前の知り合いか?」
「お前ってのは気に食わないな」
「では、レンでどうだ? 俺の名はラグーン、こいつはエスカだ」
 こいつ呼ばわりされたエスカは、相変わらず、胡散臭げにレンティウェストと名乗る青年の顔を見ているままだ。
「レン、ね……」
 青年は、思い切り省略された自分の名前を吟味するかのように、わずかの間、その紫色の目を閉じ、そして開いた。
「ま、いいだろ。ところで、確かにこいつは俺の仲間だった。あの、けたくそ悪い狼野郎に襲われるまではな」
 レンは、ひどく流暢な発音で悪態らしき言葉を吐いた。が、草原生まれの二人には、その内容はよく分からない。
「もう、一ヶ月は前のことだ。俺たちは、ここよりちょっと先で、野宿を始めようとしてたのさ。そしたら、いきなりワー・ウルフに囲まれちまった。それも、ハンパな数じゃない。あんたら、んな体験したことあるか?」
「…………」
「結局」
 返事を待たずに、レンは話を再開した。
「奴等の囲みを破れたのは、俺だけだった。何しろ、俺には伝説の十二英雄全ての血が流れてるからな。そんな俺でも、逃げるだけで精一杯。磨羯宮神カプリコルヌスもかくやという逃げ足さ。あとは、例によって例の如し。『金の目のラキアス』のサーガに歌われるとおり、憐れな犠牲者はワー・ウルフの呪いを受け、自らも殺戮者と化してしまう」
「それが、この男か」
「〈騎士崩れ〉〈退学者〉〈遺跡荒らし〉……三人とも、仲良くワー・ウルフさ。こいつは〈遺跡荒らし〉。面白味はねえけど、腕のいいおっさんだったぜ。しかしまあ、運がなかったんだぁな」
「おい、お前!」
 エスカが鋭く言った。
「自分だけ、逃げておいて、よくも、そんな口を……」
「よせ、エスカ」
 ラグーンが低い声で制する。
「この男が、今まで森から出なかったのは何故か、分からないのか?」
「…………」
「この男は生き残り、そして、自分が生き残ったことへの責任を果たしたのだ」
「しかし……!」
「まあまあ。お姐さん、あんたの言うとおりさ。俺は逃げた。そして、かつては仲間だったワー・ウルフが恐くて、この一ヶ月の間逃げ回り、木の実草の根で飢えをしのいで、さんざ引っ張り回した上、たった今、やっとの思いで最後の一人を返り討ちにしたわけだ。自分のため、生き残るためにやったことさ」
 レンは、罵られたことなどほとんど意に介さぬ様子で、大仰に胸を張った。
「別にそれでも、俺は恥じちゃいないよ。ただ、それであんたみたいな綺麗どころに嫌われるのも、ヤなんだけどね」
 そう言いながら、露悪的な陽気さでにやりと笑って見せたレンに対し、エスカはきつく眉をしかめたままだ。
「ところで、お前たちは何故この森に来たんだ?」
 そう尋ねるラグーンに向き直り、レンは言った。
「一方的に訊いてばっかりってのは、虫が好すぎだな。あんたらこそ、何だってここにいる?」
「人探しだ」
 簡潔にラグーンは言い切り、そのまま言葉を続ける。
「青い服の若い魔術師と、金髪の少女、灰色の髪の男、あと、革鎧を着た子供を探している」
「ずいぶんとまた、たくさん探してるもんだな。……そいつら、家族か何かか?」
「いや。少女と灰色の髪の男は、一応、同じ一族だがな。あと、魔術師と子供の方は、俺の仲間だ」
「よし、分かった」
 と言うと、レンは、かつて〈遺跡荒らし〉だったというワー・ウルフの死体に向き直った。
「分かった?」
「話が長くなりそうなことが分かった。こいつを埋めながら聞くよ。手伝ってくれると有り難いんだけどな」
 ラグーンは逞しい肩を竦め、荷物を地面に下ろした。



 ラグーンがこれまでのいきさつを語り終わった頃には、道の端に、〈遺跡荒らし〉の墓ができあがっていた。墓と言っても、墓標は、〈遺跡荒らし〉が未だに腰に差していた剣の鞘であったが。
 その、ひどく簡単な墓標に対し、形ばかりの祈りの印を結んだ後、レンはラグーンとエスカに向き直った。
「これは、昨日の話だ。多分、あんたの探してる連中に関係ある」
「……聞こう」
 ラグーンは、相変わらず落ち着いた態度で、そう応えた。
 そんなラグーンの態度が気に食わないのか、ひどく面白くなさそうな顔をしながらも、レンは続ける。
「さっきも言った通り、俺は一度はワー・ウルフの群から逃げ出した。そんな俺を追ってきたのが、変わり果てた姿の仲間三人だったわけだ。ワー・ウルフが、どうしてそんなことをするのかは分からないし、そもそも奴等が群れてたことだけでも驚きだわな。まあ、それはそれとして、いかなこの俺でも、さすがに三人一緒に相手にするのは相当きつい。かと言って、この森の中、一人で逃げ切れるかどうかも、言いたかないが自信がなかった」
「まあ、そうだろう」
「カンにさわるなあ、あんた。……ともかく、俺は隙を狙って、追手の三人を返り討ちにすることに決めたわけだ」
 エスカが露骨に顔をしかめる。しかし、レンは平気な様子だ。
「俺は三人をさんざ引き回して、適当な木によじ登った。それから、匂いをたどられないように枝から枝へと飛び移り、ちょっと先に見える、あの馬鹿でかい杉の木の上に陣どった」
「すごいな」
「そうやって、そう素直に驚いてくれるのが一番だな。んで、えーと、どこまで話したっけ? そうだ、その杉の木の上に陣どったのが一昨晩のことだった。あそこからなら、この獣道の様子もうかがえる。俺はまるで獲物を狙うワシみたいに、忍耐深くじっと潜んでいたもんさ。すると、丸一日経った頃、なんと例の三人が杉の木の真下に現われた。しかも、見たこともない連中と一緒にね」
「それは、どんな奴らだった?」
「男が二人さ。両方とも、馬に乗ってたぜ。片方は、何だかぐったりした金髪のガキを前に抱えてた。それから、そうでない方は、魔法使い風の、青いローブをまとってやがったぜ」
「シモンか!」
「おいおいおい、そう詰め寄るな」
 レンはひらりとステップして、自分につかみかからんばかりの勢いのラグーンから身をかわした。
「まあ、確かにさっきのあんたの話に出てた、シモンって魔術師と、あとティティスだっけ? そいつかもしれねえよ。女のガキを運んでたのは、話にあったダイロンってえ奴かもしれねえな。髪の色も、確か灰色だったしな」
「で、それから?」
 ラグーンから感情的な反応を引き出したのが嬉しいのか、レンは端正な顔を笑いの形に歪めた。
「それがさ、そのローブの男が、ワー・ウルフになっちまった俺の仲間に、何やら指図したのさ」
「何だと……」
「魔法、にゃあ見えなかったな。本当に、主人が部下にやるような、上意下達って感じだったね。誰だかを、ここで捕まえるか足止めしろって言ってたみたいだったぜ」
「……それで?」
「それでも何も、野郎どもは馬に乗ったまま、行っちまったよ。聖地とかいう御大層な場所の方角にな」
「そうか……」
「で、話はまだ終わってないんだがね」
 レンは、芝居ががった仕種で、人差し指を立てて見せた。
「続きを言うには、条件がある」
「条件?」
「あんたら、どうせ聖地とやらに行くんだろ」
「まあ、そうだな。シモンやティティスらしいのがそこに向かったとなれば、なおさらだ」
「じゃあ、俺もそこに連れてってくれ。それから、俺の仕事を手伝って欲しいのさ」
 レンはそう言って、自分をきつく睨んでいるエスカに片目をつぶって見せた。
「……盗みか?」
 エスカが、堅い声で訊く。
「そう、なるかもな。とにかく、俺はその聖地とやらに眠るお宝が欲しいのさ。持ち主がいないようなら、拾って帰るだけになる」
「貴様という、奴は……」
 エスカの視線が、いっそうきつくなる。だが、レンはいたって平気そうな顔だ。腰に両手を当て、薄く笑いながら、エスカと、そしてラグーンの顔を交互に見ている。
「分かった」
 今にも、平手打ちでもかましそうなエスカの肩に手を置き、ラグーンが言った。
「条件を飲もう」
 エスカは、レンを見ていたのと同じ目でラグーンを睨みつけ、邪険に肩から手を振り払った。
「そいつはいい。この契約に天秤宮神リブラの信義を! あんたは少なくとも、俺より力だけはありそうだしな」
「あたしは、ごめんだぞ!」
 さえぎるように激しく、エスカは言い放った。
「あたしは、親の仇のこいつに、ついていくだけだ。お前の、汚い働きなどに、加わったりはしない」
 おやおやおや、と言いながらレンは目を丸くして見せる。
「案外と複雑な事情をお持ちのようだな。まあ、いいさ。どんな理由であれ、若い女連れってのは、悪くないね」
「ところで、続きというのは?」
 ラグーンは、相変わらず落ち着いた声で、レンに訊いた。
「続きったってそう長い話じゃない」
 レンが、やや真顔に戻って言う。
「そのあとやってきた革鎧のガキが、問題のワー・ウルフ三人をぶちのめしたのさ。生き長らえたのはこの〈遺跡荒らし〉だけだった。残り二人の死体は、あのテレノア杉の木の下だぜ」



 杉の木の上で獣道を監視していたレンが見たのは、三体のワー・ウルフに立ち向かう、まだ体の成長しきっていない少年だった。
 すでに夕暮れ時を過ぎていた。レンの訓練した目だからこそ、その戦いの様子を見ることができたのだ。
 少年は、目の前に立ち塞がるワー・ウルフに、ナイフを逆手に構えたまま、果敢に走り寄った。
 ワー・ウルフのうちの一体が、そんな少年に鉤爪を振るった。
 と、少年は、その鉤爪が走るのと同じ方向に、大きく跳躍したのだ。
 一体目のワー・ウルフが体勢を崩した時、少年は、その頭部目掛けナイフを突き出していた。
 空中で半回転し、木の幹を蹴ることでワー・ウルフに反撃したのだ。
 悲鳴に近い咆哮が、森の木々の枝を震わせた。
 少年が、ワー・ウルフの頭に飛びつき、その左目に深々とナイフを突き立ててたのである。
 ワー・ウルフが倒れ、そして、少年の姿が消えていた。
 その時には、レンは弓を構えていたのだが、距離と暗さのために狙いが定まらなかった。
 残り二体のワー・ウルフが、少年を探すように頭を巡らせている。
 数秒後、思いがけない角度から、少年が姿を現した。
 一体目の死体からやや離れた茂みの中からである。岩や大木の陰を利用し、別のワー・ウルフの背後に回り込んでいたのだ。
 少年の姿に気付いた二体目が振り返った。
 二体目が、少年を狙い、大きく腕を振るう。
 少年が身を沈めた。
 少年の体は、そのワー・ウルフの予想よりもさらに下に移動していた。
 少年は、まるで獣が伏せるような姿勢で、地面にべったりと這っていたのだ。
 バネのようにたわんでいた少年の体が、跳ねる。
 少年は、ワー・ウルフの肋の下の筋肉の隙間目掛け、突き上げるようにしてナイフを差し込んだ。
 二体目は、声すら出せなかった。
 びくん、と二体目のワー・ウルフの体が痙攣する。刃が、心臓にまで達したのだろう。
 どう、と二体目のワー・ウルフが倒れた。
 少年が、三体目のワー・ウルフと対峙する。
 その時、レンは、かつて自分の仲間――<遺跡荒らし>だったワー・ウルフが、体を硬直させているのを見て取った。
 ワー・ウルフは、明らかに、怯えていた。いや、圧倒されていたと言った方が正確だろうか。
 離れた木の上から窺っているレンには計り知れない何かが、少年の全身から放射されているらしい。
 その時――咆哮が、響いた。
 ワー・ウルフのそれではない。似てはいるが、その声は――少年のものだった。
 威嚇。
 それは、格上のものが格下のものに対して行う、暴力的な警告の声であった。
 レンは、目を疑っていた。
 かつて<遺跡荒らし>だったワー・ウルフが、逃げ出したのだ。
 咆哮は、いつの間にか、終わっていた。
 少年の姿も、木々の間に消えてしまっている。
 自分も認めなくなかったが、レンは、しばらくの間、放心していたようだった。
 そして、レンは、木から降り、一撃でその命を奪われたかつての仲間二人のもとに行った。
「……で、結局、俺にできたことといえば、その二人を埋葬して、木の上での待ち伏せを再開するくらいだったわけさ。何とも不本意かつ不可解な展開だったとは今でも思うがね」
「むぅ……」
 レンの言葉に、ラグーンは、喉の奥で唸るような声を上げていた。



 湿っぽい洞窟の中で、ティティスは目を覚ました。
 自然の洞窟に手を加え、辛うじて人が中で活動できるようにしている。そんな場所だった。暗い明かりの中、首をめぐらすと、錆びついた鉄の扉が一つ、ある。
 ティティス自身は、粗削りの岩の寝台の上にいた。頭の上でそろえられた両手首が、錆びてはいるが頑丈そうな鉄の環で戒められている。そして、その鉄の環は鎖で床につながっているらしい。
 どれだけ長い間、このままでいたのか、見当も付かなかった。体の節々が、鈍く痛む。
 樹脂の蝋燭が燃える独特の臭気が、よどんだ空気の中に漂っていた。
 洞窟の中の調度と言えば、蝋燭を支える燭台と、岩の寝台、それくらいである。
(ここ、聖地だ……)
 全く見知らぬ場所であるにもかかわらず、ティティスは即座にそう確信していた。
 強く、それでいて静謐な力が、空間に満ちている。ティティスがこれまで何度もカバラによって導いてきた、〈月の神〉の力だ。これほど〈月の神〉の力の充ちている場所を、ティティスは聖地以外に知らない。
(聖地の地下に、こんな場所があったんだ……)
 ティティスは、自分でも驚くほどの冷静さで、周囲を観察した。
 横たえられているティティスの体の右側にある錆びた扉以外に、この部屋の出入り口はないようである。明かり取りの窓のようなものさえない。かなり地下深くに備えられた部屋であるらしい。
 ここから逃げるとしたら、あの扉を開かなくてはならない。扉の向こうがどうなっているか分からないが、見張りの存在くらいは警戒せねばならないだろう。
 さらにその奥については、全く分からない。闇と、同じだ。
 地上に出るために、上りの階段かはしごかを見つけねばならないだろう。しかし、自分には〈月の神〉の導きがある。それにここは間違いなく聖地なのだ。〈月の神〉の声も、よりよく聞くことができるだろう。
 とにかく、その前に鉄の環を手首から外さなくてはならない。
 ティティスは、自らのカバラによって、溢れんばかりの〈月の神〉の力に形を与え、鉄の環の鍵としようとした。術者を妨げる鍵や扉を開く『解錠』の呪文である。
 突然、脳髄に鋭い痛みが跳ねた。
「きゃあぁっ!」
 思わず悲鳴が漏れる。無論、精神の集中は途切れ、呪文は完成しない。
 見ると、岩肌が剥き出しの灰色の地面に、何やら光る文字のようなものが浮かび上がっている。
 その光は、何度か明滅した後に、次第に消えていった。
「『呪文封印』の魔法陣……」
 思わず口に出してしまったティティスに応えるように、鉄の扉がきしむような音を立てて開かれた。
「目覚めたようだな」
 マグスであった。
 相変わらず、赤い宝石をあしらったメダルを首から下げ、青いローブを身にまとっている。
 シモンと呼ばれていた頃と、外見的な差異は見られない。しかし、フードの奥の特徴のない顔は、そこに暗闇が凝っているかのような、圧倒的な無表情だ。
「……ここ、聖地ね」
「その通り」
 ティティスの断定的な問いに、マグスは無造作に答えた。答えながら、ゆったりとした足取りでティティスに近付いてくる。
「あなたの目的は何? 聖地で、何をしようというの?」
「私は、ここである実験をしようと考えている」
 マグスは、ティティスの横たわる寝台の、頭の方向にあたる場所で足を止めた。年齢不祥のさかさまの顔が、ティティスを覗き込む。
 顔だけではない。声にも、立ち振る舞いにも、マグスの年を推し量らせるようなものは何もない。あえて言うなら、その淡い褐色の瞳の中に、計り知れない時間を見つめてきたかのような色が見えるだけだ。
「実験? 何の?」
「果たして、神を殺すことが可能か否かという試みだよ」
「な……」
 ティティスには、その言葉が理解できなかった。
 意味が取れなかったのではない。心に、その言葉の意味するところが届かなかったのである。〈月の娘〉であるティティスにとって、〈月の神〉を含め、神々が不滅であるということは、口にするのも愚かしい、言わば世界の前提であったのだ。
「神は、殺すことができる。非常な困難を伴うだろうが、そのこと自体は可能なはずだ」
 しかし、マグスは淡々とした口調でそう言ってのけた。
「無論、それを確かめるための実験だ。我は、この地にて〈月の神〉を永遠に消滅させることを試みるつもりだ。そして、恐らく、成功するだろう」
「…………」
 ティティスは、言うべき言葉が見付からない。
 神を殺すということを語るマグスの顔は、仮面のような無表情のままだ。狂気の色など一片も見られない。
 マグスの言うことは、狂気に属することのはずである。しかし、ティティスにはそれを感じることができないのだ。
「信じられぬ、という顔だな」
 ティティスは、素直にうなずいた。
「〈月の娘〉としては、そうかもしれん。しかし、〈月の神〉を殺すにあたっては、お主こそが、試みのための鍵となるのだ」
「鍵?」
「それを期待して、この小さな山国に留まっていたのだとは言え、こうも易々とお主が私の手元に転がり込んだことには、正直、今でも驚愕を禁じ得んよ。……無論、運命などではなく、私の長すぎる生涯のもたらした、ささやかな偶然に過ぎんのだろうがな」
「……どういう、こと?」
「〈月の娘〉は、お主らが言うところの聖地にて、〈完全なる満月〉の夜、〈月の神〉と完全に同調する。月が欠け、その影響力の弱まる時期に備えてな」
「…………」
 その通りである。ティティスは、茫然と聞くしかない。
「その時、〈月の神〉と〈月の娘〉との間に、カバラによって構成される一種の通路が発生する。無論、その通路を通るカバラの向きは、水が高きより低きへ流れるが如く、〈月の神〉から〈月の娘〉へと一定であり不可逆だ。何者も、その流れには逆らえん」
「…………」
「しかし、時間が逆に流れれば別だ」
 初めて、マグスの目に強い光が宿った。
 しかしその光はすぐに消え、もとの無表情に戻ってしまう。
「時間を……?」
「時の流れを完全に自由にすることは、創造神にして宇宙神たるアブラクサスのみに可能なことだ。ゆえに十二宮神はアブラクサス神を恐れ、時間の始源に幽閉している。……だが、局所的な時間の流れを操作することは可能なのだよ。多くの自称賢者が誤解しているが、時は、何物にも平等に流れているというわけではないのだ。事実、私は自らに流れる時間を、ほぼ停止せしめている」
「…………」
「この力によりて、〈月の神〉を殺すことができる。その時――完全な同調が得られし時にお主を殺せば、その事実は逆流し、死のカバラとなって〈月の神〉を殺すだろう。カバラによって事実が干渉されるのと、ちょうど逆の現象だ」
「……なんで……?」
 弱々しく、ティティスは訊いた。
「なんで、そんなこと、するの? どうして、〈月の神〉を滅ぼすなんてコト……」
「これは、単なる試みに過ぎん」
 マグスは、気負う様子もなく答えた。
「〈月の神〉を殺すことができるなら、他の神々とて同様であろう。つまり、人として生まれたものが、神を殺すことができるかという実験だよ。が、必要な実験でもある……」
「んあっ!」
 突然、戒められている両の手首に痛みが走った。マグスが、右手で強く鎖を引いたのだ。
「言うなれば、この鎖を外すための手続きの一つ……」
「…………?」
「お主は、心ならずも私によって捕らえられ、鎖に繋がれ、自由を奪われている」
 鎖を握ったまま、まるで他人事のように、マグスは言った。
「今、お主が感じている絶望を、私も常に抱いている。それは、圧倒的な絶望、世界に対する絶望だ。我らを戒める鎖への、抜きがたい憎悪と絶望だよ」
 見かけによらず、マグスの力は強い。ティティスは、鉄の環がこれ以上手首を傷つけないように、鎖を握りしめた。その掌に、錆びた鉄が容赦なく食い込んでいく。
「鎖は、常に他者が握っている。そして、世界は圧倒的多数の他者によって構成されている……」
 自分の血と汗で、ティティスの手がぬるぬると滑った。息も、荒くなっている。ティティスの両手の力より、マグスの右腕の方が強い。
「世界は思い通りにはならぬ。お主も、私も、何者も、黄道十二宮の神々であっても、世界の王ではないのだ。すでにカバラによって創星を果たした唯一絶対のはずのアブラクサス神は幽閉され、以来、世界の玉座は未だ空位だ。――何故か?」
 ティティスは、答えない。そして、マグスも答えを期待しているようではなかった。
「他者が、いるためだ」
 そう続ける声は、ティティスに語りかけられているものというより、何かの呪文のように、ほの暗い部屋に陰々と響いた。
「あらゆる他者こそが、世界の王たらんと欲するものを阻む壁なのだ。大部分を他者によって構成されるこの世界は、不可視の鉄槌によって潜在的に世界の王を打ち砕く。ゆえに、神を、人を、あらゆる他者を排した後にこそ、世界の王への道が拓けるのだ」
 マグスの口が、笑いの形にわずかに歪んだ。
「私は全てのものを殺す方法を求める。世界の王となるために」
 不意に、マグスは手を放した。
 鎖が岩にぶつかる音が耳を打つ。
 ティティスは、しばらく呼吸を整え、ようやく声を出した。
「あ……あなた……何者なの? シモンさんはどうなったの? あなた、本当に、あのマグスなの?」
 ティティスは、ほとんど叫ぶように、次々と訊く。まるで、そのことによって精神の平衡を保とうとしているかのように。
「あの、というのがどういう意味か正確なところは分からないが」
 マグスは、遥かな記憶をたぐるように少し沈黙し、続けた。その口調は、ティティスの様子とは無関係に、あくまで物静かである。
「我が名はシモン・マグス。お主がシモンと呼んでいたのは、私が空中の精霊どもから創造した、模擬的な人格に過ぎん。……私は、すでに滅びし彼の帝国より、第三階梯宮廷魔道師の称号を受け、この地に派遣された者だ」
 ティティスは、わずかに目を見開いた。
 シモン・マグス。エールス建国以前、帝国植民団を率いてこの地に現われ、侵略の指揮をとった、来歴不明の伝説的宮廷魔道師。
 いや、伝説というなら、宮廷魔道師という存在自体が、もはや伝説の存在である。
 目の前のマグスと名乗るこの男が、本当にエールスの建国伝説に登場するあの宮廷魔道師だとするなら、何百もの齢を重ねているということになる。とても信じられない、というより、法螺話に近い滑稽さである。
 しかし、宮廷魔道師であるなら、そういうこともあるかもしれない、とティティスは考えた。
 世界の理を解き明かし、それを言葉によって自在に操る魔法の使い手たち。その中でも、その力によって、公の場での発言力を有するようになった者は、宮廷魔道師と呼ばれた。
 かつての為政者は、魔法に関する知識と、人間に対する知恵が別のものであることを知らなかった。魔道や神秘の世界における禁忌が、人の世の倫理と、時に重大な矛盾をきたすことを理解していなかったのである。
 宮廷魔道師は、魔法の力によって宮廷の人心を操り、政敵を暗殺し、民衆を厳しく抑圧した。彼らにとってみれば、魔法の力を持たず、さらにその研究に対して何の援助も行えない人々は「愚民」でしかなかったのだ。貴族や高級官吏、在野の魔法使い、そして農奴達と、様々な立場の人間が、宮廷魔道師という特殊な階級に対する反乱を企てた。しかし、それらはすべて深刻な打撃を与える前に、完膚なきまでに叩き潰されてしまった。
 魔法の論理と技術は、帝国の絶対の庇護の下、大いに躍進した。しかし、その影には、危険な魔法実験や大掛かりな儀式に対する、数多くの犠牲者があったのである。
 結局、宮廷魔道師の専横は、帝国滅亡の原因の重大な一因として数えられている。そして今、宮廷に魔法の使い手が招かれるということは、ごくごく稀なこととなったのだ。
 そういう意味では、宮廷魔道師であるということ自体、不死の亡者であることに等しい。
 ティティスは、自分が細かく震えていることに気付いた。マグスの態度は、そのこと――彼が一種の亡者であるということを裏打ちするに充分だったのである。
 ティティスは、やはり震える声で、ようやく言った。
「あなたの、思い通りにはさせないわ」
「……ほう」
「あなたの狂った野望のための生け贄にされるくらいなら、あたし、死ぬわ。舌を噛んででも、壁に頭を打ち付けてでも、絶対に、あなたの自由になる前に死んでやるから!」
「ふむ……」
 マグスは、扱いの難しい道具を前に思案するような表情の後、ゆっくりと口を開いた。
「お主が死ねば、あのファールとかいう子供も死ぬが、それでもいいか?」
「……え?」
「まだ、気付いておらなんだか。お主とあの子供の魂は、強い絆により結ばれている。お主が命を絶てば、あの子供も無事では済まん」
「ど……どういう、こと?」
「お主は、一度死んだのだ」
 こともなげに、マグスは言ってのけた。
「半月前、お主は殺されたのだよ。カリヴスとかいう、巨蟹宮神に仕えるあの憐れむべき男の手によってな。肉体が〈月の神〉によって完璧に保護されていても、喉を切り裂かれるという衝撃に、お主の魂は耐えられなかったのだ」
 マグスは、右手の指をティティスの喉に当て、乱暴ではないが、優しいと言うには感情の感じられない手つきで、すうっと真横に走らせた。
「正直、私は困惑した。〈月の娘〉が魂のない木偶人形では、〈月の神〉と同調させるなど、全く無理な話だ。それに、魂なしで肉体がいつまで維持できるかも問題であった。私は、いささか粗雑な方法だとは思ったが、お主に魂を補ってやることにしたのだ」
「…………」
 ティティスの顔から、血の気が引いていた。淡い桃色の小さな唇が、小刻みに震えている。
「私は、手近なところで調達することにした。すなわち、ファールとかいうあの浮浪児の魂を二つに分割し、片方の記憶を漂白して、お主の体内へと移殖したのだ。幸いお主の体には、〈月の神〉によって守られておったためであろうが、〈月の娘〉としての記憶がほとんど残留しておった」
 そう語るマグスの口調には、人の魂を弄ぶことへの罪悪感など微塵も感じられなかった。ただ、自らの技について語る職人か何かのような響きが、わずかにあるばかりである。
 ティティスは、自らの魂――自分の意識そのものが他人から移し替えられたという事実よりも、マグスのその声に戦慄していた。
「移殖は、成功だった。お主は目覚めた後、自らが〈月の娘〉であることに、いささか違和感を覚えているようだったがな。とは言え、お主とあの子供の魂は、依然として深いところで繋がっておる。お主の魂が滅べば……」
「やめて!」
 ティティスの悲痛な叫びにいささかも心を動かされた様子もなく、マグスは続ける。
「ファールとかいう子供の魂も滅ぶだろう」
「うっ……く……」
 ティティスは、自らの命を絶つという選択肢さえ封じられた悔しさに、血が滲むまで唇を噛んだ。途切れ途切れの鳴咽が、そこから漏れる。
「……こんなことが、脅しになるとはな」
 かすかに意外そうな調子でそう言った後、マグスは部屋の唯一の入り口である、錆びついた鉄の扉へと歩いていった。
 気にさわるきしみを残して、扉が閉められる。
 何故か、何か重大なものに裏切られたという想いが、ティティスの胸に、重く広がっていった。



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