白 狼 伝



−幕間劇−



 〈白狼王〉は、森の中を走り続けている。
 目指す場所は、聖地である。
 四肢はしっかりと大地を蹴り、純白の毛皮の下では、優美に筋肉がうねり、動いている。そして、その血のように赤い瞳は、遥か彼方を見ていた。
 このように全力で駆けていると、何もかも忘れ、一匹の獣に戻りたくなる。
 それは、〈白狼王〉にとってあまりに甘美な誘惑であった。
 しかし、身の内の野生を解き放つということがどれほど危険なことかということを、〈白狼王〉は知っている。彼がわずかにその本性を露わにしただけで、目前に迫っていた聖堂騎士団の一隊は、数秒にしてただの肉塊と化してしまった。できうる限り何者も傷つけまいと考えてきた彼にとっては、痛恨事であった。
 その後悔の念でさえ、暴風の前の花びらのように、いずこへか消えてきそうになる。
 〈白狼王〉は、理性を保つべく、人として過ごしてきた日々を追想した。
 一介の傭兵として戦い、思いもかけずに騎士叙勲を受け、さらには男爵にまで任じられてしまった、つい最近の数年間。
 そしてそれ以前。流れ者としてあちこちの村を渡り歩いた日々。
 仲間や友人は次々と不帰の人となり、かつて思いを寄せた娘が、次に訪れた時には老婆となって、孫に昔語りを聞かせている。幾度もそのような目に逢ううちに、哀しみや、定命の者への憐れみよりも、むしろ深い感動のようなものを覚えてしまうようになったものだ。
 彼女が孫に語っていた話は、他ならぬ自分のことであった。
 建国の英雄エールと、ワー・ウルフの長たる〈白狼王〉リカオニウスのサーガ。
 エールがその力によってリカオニウスを下し、かつてこの地に跳梁していたワー・ウルフ達を放逐することによって、エールスという国の礎を築くという、他愛もない物語である。
 孫は、老婆に訊いた。エールさまはどこに行ってしまったのかと。
 たしかに伝説は、建国の英雄エールの行方について、何も語ってはいないのだ。
 老婆は、その村にだけ伝わる独特な言い伝えでもって、孫の疑問に答えていた。
 ――エール様は、月にお帰りになったのだよ……。
 いや、あれは自分があの娘に教えてやったことだったか。
 エール。何と懐かしい名前であろう。その響きは、まるで長い間会っていない、古い古い友人の名のように、胸に染み入ってくる。
 そして、そのエールの佩剣たる、〈月霊剣〉アシュモダイ……。
 その二つの名が、あの聖地には眠っているのだ。
 〈白狼王〉は、今一度、伝説の時代に帰るような気持ちで、聖地に至る森の中の道を、月の光の下、走り続けている。
 その赤い瞳が見ているのは、遥かな、遠い過去であった。



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