白 狼 伝



−幕間劇−



 七十二本の魔剣の一つ、〈月霊剣〉アシュモダイ。
 創星神話においては、創造神にして宇宙神たるアブラクサスが、十二宮神の反乱を受けて、それに対抗すべく鍛えたのが、七十二本の魔剣であるとされている。
 また魔剣とは、かつて別の次元では神と呼ばれ、悪魔として恐れられていた霊体であり、現次元における一振りの黒い剣としての実体は、あくまでかりそめのものである、とも言われている。
 魔剣の秘められた力は単なる刀剣の枠を大きく逸脱している。そもそも魔剣とは、剣の形をした次元断層であり、黒く凝り固まった世界のひずみそのものであると考える賢者もいるのだ。
 魔剣の本質が、剣であるのか、魔神であるのか、多元宇宙構造の綻びであるのかという話は、見る角度によって形を変える立体についてのそれのように、とりとめがない。
 しかし、少なくとも、全ての魔剣に意志が宿っていることは確かだった。
 そして、ここ聖地に常に満ちている〈月の神〉の力や、大気を漂う精霊の流れ、それらがまるで超自然の嵐の如く乱れているのを、アシュモダイは全身で感じている。
 このようなことは、アシュモダイにとっても馴染みのことではなかった。
 長きにわたるアシュモダイの来歴における代々の所有者の中でも、桁外れに強い精神力を有していた、英雄エール。彼に最後に振るわれたあの戦いの場は、このような場所ではなかったか。
 魔剣は、意志とともに記憶を有している。
 しかしそれは常の意味で言うところの記憶とは、根本的に異なる性質のものである。
 魔剣の記憶とは、異様に研ぎ澄まされた触覚の集積に似ていた。
 魔剣が把握する外界は、その柄を握る所有者の拳と、その黒い刃によって切り裂かれるもの、それだけである。柄を握る拳の力や温度、分断される肉や骨、刀身を滑る体液こそが、魔剣にとっての世界の全てなのだ。光も、音も、匂いも、味も、時間も、人の心の動きさえも、全てを皮膚感覚によってとらえているのだとも言える。
 そしてエールは、ひときわ記憶に残る所有者であった。
 魔剣の試練を易々と受け入れながら、しかもまったくの正気を保っていたあの男の精神力。エールが〈白狼王〉を制するのに、アシュモダイが協力したのは、彼の拳から熱いほど伝わってくる、その精神力に応えたに過ぎないように、アシュモダイには思われる。
 そしてアシュモダイは、今も、自らが砕いた魔法陣の魔力場の感触を記憶している。暴走した魔力は何億本もの見えない針となり、人であれば確実に気を狂わせるであろう痛覚の塊が、アシュモダイを支配した。
 英雄エールが、マグスという宮廷魔道師の不死への試みを、不完全ながらも打ち破ったその瞬間である。
 エールも、マグスも、いかに超人的な存在であったとは言え、生身であの暴風のような魔力にさらされた以上、ただでは済まなかったはずなのだ。
 ただ、アシュモダイのそれ以降すぐの記憶は不鮮明である。
 おそらく、魔剣としての自らの記憶や感覚さえも長期にわたって混乱させるような、それほどの魔力だったのだろう。
 そして、〈月の民〉に回収され、彼らの儀式に形式的に利用される時以外は、暗い宝物庫に幽閉されるという、長く無意味な時間が累積する感覚。
 そして今、この力の嵐の中でアシュモダイを握っているのは、あの日の儀式の失敗を克服した、シモン・マグスその人である。
 アシュモダイは、人が運命と呼ぶのものに近い何かを、その漆黒の表面で感じていた。



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