クレイモアNW/ヘボ親父・十番勝負!(べる様・絵/巽ヒロヲ・文)

 宵闇の河原で、若い男と、巨漢が、対峙していた。
「勝負あり、ですか?」
 若い男は、ずたずたに切れた口で、言った。両の拳が熱を持ち、じんじんと疼いている。
「まだだ」
 相手の巨漢が、ぜいぜいと喘ぎながら、答える。その肋骨は砕け、一部は肺に食い込んでいるはずだ。
 男は、相手の巨漢の肋骨を粉砕する代わりに、両の拳を殺された。
 すでに、足の甲の骨も折れている。まともな蹴りを放てる状態ではない。
 それでも、この両手と両足が砕けるまで、巨漢に致命的な打撃を与え続けた。
 だが、目の前のこの巨漢は、立っていた。
 ただでさえ大きな顔は腫れ上がり、口や鼻どころか、耳からも鮮血が溢れている。
 だと言うのに、巨漢の両目は死んでいない。いや、高まった闘争本能に、ますます輝いているように見える。
 男は、相手のタフさに舌を巻いた。
 もちろん、自分だって、自らがもう戦えないなどとは思っていない。
 あちこちの皮膚が裂け、いくつかの筋肉が断裂し、そこかしこの関節が外れ、すくなからぬ骨が折れている。
 特徴的な、鉤状に伸ばされた人差し指と中指で、突かれ、抉られ、掴まれ、投げられた。
 それが、葛城流という名の古武術だと、男は巨漢に初めて聞いた。
 相手の巨漢も、全く同じ状況だ。
 二人とも、立っていることが不思議なほどの状態である。
 それでも、まだ戦える。
 まだ、見せていない技がある。
 そして、まだ、闘う気力は萎えていない。
(考えてみれば……)
 男は、思った。
(俺は、あの女に勝つために、強くなろうとしていた……)
(あいつが去った今、強くなる理由は、無くなったと、そう思っていた……)
(しかし……もしかしたら……戦うために……ただ戦うために強くなるってことも……あっていいんじゃないか……?)
 巨漢が、血を含ませたぼろ雑巾のような顔に、楽しげな笑みを浮かべているのを見て、男はそう思った。
(いや……!)
 男は、悪魔の誘惑とさえ言えるその想念を、頭から追い払った。
(俺は、何かを守るために戦う。何かを守るために強くなる。そうでなければ、強いってことに意味は無い!)
 守るのは、己の名誉か、矜持か、家族か、それとも……。
「京次っ!」
 女の声が、男を呼んだ。
「修三さん!」
 女の声が、巨漢を呼ぶ。
 見つかってしまった。
 これで、この立会いは終わりだ。そういう約束だったのだ。
「次は、こうはいかねェぜ」
 巨漢が、言った。
「もし、次があったら、どっちかが死にますよ」
 男が、言う。
「そうだな」
「ええ」
 だから、こんな馬鹿をするのは、今日が最後だ。
 男――皆月京次は、そんなことを思いながら、なぜか一抹の寂しさを覚えていたのだった。

 そして、それから数年が経った。

 ある土曜日の昼下がり。皆月京次は、アパートの自分の部屋に戻ってきた。
 切れ長の、いつも鋭い光をたたえたその眼に、今は疲労の影がある。
 仕事帰りではない。病院から戻ってきたところだ。複雑な事情を抱えた少女を一人入院させるために、手続きにひどく時間がかかってしまったのだ。
「……」
 たった今、病室に置いてけぼりにしてしまった自分の娘のことを考える。ひどく哀しそうな目だった。
 彼女の体が治ったら、すぐにも迎えに行こう、と思いながら、京次は、がらんとした部屋を見回した。
 つい先週までここに一緒に住んでいた妻と息子は、今は実家に帰ってしまっている。
 原因は、先週突然現れたあの娘だ。
 雪之絵命――。
 皆月京次と、雪之絵真紀の、合意に基づかない性行為の果てに生まれた娘である。しかも、レイプされたのは京次の方だ。
 青春の思い出と言うにはあまりにも苦い過去の結実ではあるが、京次は、命を自分の娘として育てることに決めた。
 そのため、妻の詩女は、息子の貴時を連れて出て行ってしまったのである。
 詩女にとって、雪之絵真紀は単なる恋敵などではない。自らに女としての最大の屈辱を与えた、悪魔にも等しい存在だ。
 その雪之絵の娘と離れて暮らすという詩女の決断はある意味で正しいと、今ならば、京次は思うことができる。
 詩女が出て行った夜は、彼女から、顔の形が変わるほど強烈な攻撃を顔面に受け、まともにものを考えるどころではなかったわけだが……。
 と、その時、ノックと言うにはあまりに無遠慮な音が、皆月京次の部屋に響いた。
 まるで、固い石をドアにぶつけたような音だ。
 不審に思いながら、京次はドアを開けた。
 相手の顔は、予想よりやや高い位置にあった。視線を上げ、そして、京次は懐かしそうに微笑んだ。
「久しぶりだな、京次」
「修三さんですか」
 そこにいたのは、葛城修三だった。
 京次が修三と出会ったのは、高校の頃である。その時の修三は、この街の盛り場で用心棒のようなことをやっていたらしい。
 京次と修三は、些細なことをきっかけとして何度か拳を交え、結局は勝負がつかなかった。
 そして、修三が、妻の父親の失踪をきっかけにこの土地を離れた時には、二人は互いを“本気で相手にしたくない男の一人”と認識していた。
 以来、離れていても、年に一度は旧交を温める関係になっていたのである。
「いつ、こちらに来たんです?」
 五歳ほど年上の修三に、京次は、折り目正しく敬語を使っている。
「今日だよ」
「奥さんは?」
「置いてきた。そろそろ追いつかれるかもしれないけどな」
「は?」
「邪魔をされたくなかったんでな」
「……? ま、どうぞ上がってください」
 京次は、不思議そうな顔で、修三を部屋の中に入れた。そして、どこか危なっかしい手つきで、お茶を淹れる。
「詩女ちゃんが実家に帰ったってのは、本当なんだな」
 出されたお茶が濃すぎたのか、渋い顔をしながら、修三は言った。
「……ええ」
「俺ぁ、あの時言ったよな、詩女ちゃんを泣かすようなことがあったら、ただじゃおかねえぜって」
「……いつでしたっけ?」
 痛いところを突かれながらも、京次は修三のごつい顔を見やった。
「いつだったかな?」
「いつなんですか?」
「ちょっと待て、確かに言ったぞ。ん、いや、あれは夢だったか」
「あのですねえ……」
 修三がぽんと手を打つ。
「ああそうだ。ウチに、“結婚しました”ってこっぱずかしい手紙を送ってきやがったろ?」
「あれは詩女の趣味ですよ」
「その手紙を受け取った時に言ったんだ。女房が証人だぞ」
「それ、修三さんの家での話ですか?」
「当たり前だ」
「だったら、俺が知るわけないでしょうが!」
 さすがに、京次は大声で言った。
「とにかく、言ったことには違いない」
「そりゃそうかもしれませんけど」
 京次は、修三の顔を見ながら疲れた笑みを浮かべる。
「で……雪之絵の娘ってのはどこにいるんだ?」
 京次の様子に構わず、修三が訊いた。
「今は、病院です。いろいろあったんで、体調を崩したみたいで」
「ふん。そンで、その病院から帰ってきたとこか」
「ええ。入院なんてヤダって聞かなかったんですけどね。どうにかなだめすかしましたよ」
「……詩女ちゃんが怒るのも無理ねえな」
 修三が、ごつい顎を撫でながら言った。
「は?」
「てめえの亭主が他の女のことでンなでれでれした顔してりゃア、家をおん出るのも当然だってンだよ」
「だって、命は俺の娘ですよ」
「けど、詩女ちゃんの娘じゃねえ」
 そう言って、修三が小さな目を細める。
「俺だって、女房が知巳にかまってるのを見ると、自分の息子とはいえブン殴りたくなるからな」
「……知巳くんが真っ直ぐ育つことを祈りますよ」
「大きなお世話だ」
 言って、修三は茶碗の中のお茶を飲み干した。
「雪之絵、か……」
 そして、渋い表情のまま、つぶやく。
「赤い瞳には関わるな。黒い瞳には近付くな」
「なんです、それ?」
「俺たちみたいな稼業の連中には有名な言葉さ」
「それと、俺の娘と何か関係があるんですか?」
「知らん」
 京次の問いに、修三が短く答えた。
「けど、まあ、その子がここにいないって言うんだったら話は早えぇ」
 修三の目に、危険な光が宿っているのに、京次は気付いた。
「顔貸せや、京次」
「……言っておきますけど、俺はあの頃よりもっと強くなってますよ」
 修三の魂胆を見抜いた京次は、その切れ長の眼を細め、言った。
「あの時でさえ、勝負が付かなかったのに、今だったらどうなると思います?」
「だからわざわざこっちに来たんだよ」
 修三が、にやりと唇を歪める。口元から覗く白い犬歯は、石くらいは噛み砕いてしまいそうだ。
「決着をつけにな」
「……本気ですか?」
「どう思う?」
「そりゃあ……本気なんでしょうね」
 京次は、溜息をつきながら、言った。
「本気で、ただ暴れたいだけなんでしょう? 詩女のこととだって、どうせ口実に過ぎないんでしょうが」
「さァな」
 言って、修三がゆっくりと立ち上がる。
「困った人だな……」
 眉をひそめながら、京次も立ち上がりかけた。
 ぶん!
 そのこめかみ目掛け、修三が右の回し蹴りを放っていた。
 立ち上がりかけたその体勢では、後ろに引いてもかわし切れない。絶妙のタイミングだ。
「ちっ!」
 京次は、体を前に屈めたまま、前に出た。
 間合が近すぎて、京次は拳を繰り出すことができない。
 ごっ!
 上向きの綺麗な弧を描いた肘の一撃が、修三の腹にめり込んでいた。
 まるで岩を叩いたような感触に、京次が顔をしかめる。
 見ると、修三の笑みが、固く強張っていた。
「舐めるなよ、カビの生えた古武道が……」
 京次が、その秀麗な眉を怒らせながら、言った。
「……何だって、年季の違いがものを言うんだよ」
 修三が、何度か呼吸を整えてから、言う。
 二人が体を離した。
「そんなに怒るな、京次。ただの挨拶さ」
「あんたの挨拶はいっつも物騒なんだよ」
 いかに無理な体勢からとは言え、常人だったら内臓を破裂させかねない京次の一撃を食らいながらも、修三は立っている。
 とは言え、次の攻撃に移ろうとしないところを見ると、かなり利いているようだ。
 それでも、京次は修三の攻撃圏内に入ろうとしない。この目の前の巨漢が、見かけによらずひどく老獪な男であることを、骨身に沁みているのだ。
「場所を変えるか」

 ふっ、と体の緊張を解き、修三が言う。

「ですね」
 京次は、険しい表情のまま、それでも口調を元に戻した。

「こんにちは」
 玄関のドアを開け、葛城千恵子は中に呼びかけた。
 落ちついた色の和服に割烹着という、かなり時代錯誤な服装が、なぜかその少女っぽい顔によく似合っている。
「……」
 玄関には、まだ幼稚園児くらいの男の子が、じっと立っていた。
「あら、貴時ちゃんね? ママはいる?」

 千恵子が、貴時に言う。
 貴時の幼い顔は無表情だ。年に似合わない、ひどく油断のならない目が、この突然の闖入者を見つめている。
 にこやかな笑みを浮かべるこの小柄な女性に、貴時は、近付こうとしない。
「あ、千恵子さん……」
 奥から、少し目を泣き腫らした詩女が現れた。京次とその娘のことを考えていたのだ。
 貴時は、ててて、と母親の方に歩いていき、そして、その前に立って再び千恵子を見つめた。
 まるで、詩女を千恵子から守ろうとするかのように、まだ短い足を踏ん張って、精一杯に千恵子を見つめてる。
「こら、貴時」
 そんな息子の様子をどう思ったのか、詩女は、ぺち、と貴時の頭を軽く叩いた。
「お客さんに失礼でしょ。あっちで遊んでなさい」
「……はーい」
 そんな母の言葉をどこまで理解したのか、貴時は、少し詩女の顔を見つめてから、奥の部屋に引っ込んだ。
「お久しぶりですね」
「貴時ちゃんが生まれた時以来じゃないかな?」
「ところで、玄関、カギかかってませんでした?」
「どうかな? 開いてたみたいだけど」
 そう言いながら、千恵子は、奇妙にクネクネと曲がったヘアピンを、涼しい顔で和服の袖口に仕舞い込んだ。
「相変わらずですね」
「え? 何がかしら?」
 詩女の言葉に、千恵子はとぼけたように言う。
「……相変わらずお若いですね、って言いたかったんです」
「やだあー、詩女ちゃんたら」
 千恵子が、ころころと鈴を転がすような声で笑う。詩女は、苦笑いを浮かべた。
「ところで、どうしてここに?」
「いえね、詩女ちゃんが京次さんとケンカして実家に帰っちゃったって聞いたから」
 千恵子の言葉に、詩女が、綺麗な柳眉をひそめる。
「あれは、京次が悪いんです!」
「そ、そうね。あたしもそう思うわ」
 詩女の激しい口調に、千恵子は慌てたように言う。
「よりによって……よりによって、あの女の……」
 ふつふつとぶり返してくる怒りに、詩女の大きな目が吊り上っていく。
「あの女?」
「最悪の女悪魔」
 普段は人の悪口などけして言わない詩女が、忌々しそうに言った。
 つまり、今、詩女が言ったことは事実だということだろう。
「ん、まあ、確かに、いきなり“お姉さん”が現れるなんて、貴時ちゃんの教育にもよくないわよね」
「ええ」
 貴時の名前が出たせいか、詩女の顔に、わずかに穏やかさが戻る。
「うちの人もね、やっぱり悪いのは京次さんだって怒っちゃってねえ」
「えっと、“うちの人”って、修三さんのことですか?」
 詩女は、千恵子の夫の、岩石を削ったようなごつい顔を思い出しながら、言った。
「そうなの。詩女ちゃんを泣かせるなんて許せないって言ってね、京次さんにお灸を据えるんだってきかないのよ」
「お灸、ですか?」
「およしなさいって言ったんだけど、ダメね。あの人、単純なんだもの」
「はあ」
「でも、そこが可愛いんだけどね。きゃー♪ 言っちゃった」
「あの、千恵子さん?」
「あ、あら、ごめんね」
 落ち着いたファッションに騙されてはいるが、この人本当は高校生なんじゃなかろうかと、詩女は一瞬思った。
「でも、修三さん、加減を知らないから心配で……」
 ほう、と千恵子が頬に手を当てて溜息をつく。
「心配ないですよ」
 詩女が言う。
「そうかなぁ?」
「ええ。だって、どんなことになっても、勝つのは京次ですから」
 その瞳に、どこか挑戦的な光を湛えながら、詩女が言った。
「あら、修三さん、強いわよ」
 千恵子は、子供のように唇を尖らす。
「知ってます。でも、京次は負けません」
 口元に、あるかないかの笑みを浮かべながら、詩女が言う。
「だいたい、京次にお灸を据えるって言うんだったら、それ、私の役目ですよ」
「そうよねえ」
 詩女の言葉に、千恵子がにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、京次さんと、あとお節介な修三さんを、一緒に探しに行きましょ」
「探しに?」
「ええ。だって、京次さんのところに行ったら、もう出かけてたみたいなんですもの」
「……分かりました。だいたい、京次が行きそうな場所は分かりますから」
「助かるわあ」
 千恵子が、両手を軽く打ち合わせながら、言った。

「最初の腕相撲は、俺の勝ちだったがな」
「いきなり両手使ってきてよくそんなこと言いますね」
「右腕も左腕も腕には違いねえだろうが! 足技使わなかっただけでも感謝しろ!」
「そりゃ、感謝できることじゃないですよ」
「次の長距離走でゴールを市役所前にするような奴が何を言いやがる! 俺は余所者だぞ! 県外だ! 市役所がどこか分かるわけねえだろうが!」
「二十歳過ぎまでこの街に住んでたじゃないですか」
「忘れちまったよ、そンな昔の話は」
「だいたい、その次の勝負で、バットを蹴りでへし折ってバッティングセンターを追い出されたのは、修三さんのせいですよ」
「あの時、俺ははっきりとお前から殺気を感じたんだよ。相手の武器を破壊するのは葛城流の基本だぞ」
「空手家の俺がバットを凶器に使うわけないでしょう! だいたい、次の勝負の綱引きってのは何だったんですか! こんなに体重差があるのに!」
「お前、わざとバランス崩した上に、手刀で綱を切って俺をすっ転ばそうとしやがっただろうが!」
「あれは事故ですよ」
「事故で綱が切れるか! 危なく地面に頭をぶつけそうになったぞ!」
「問題は、次にやったワン・オン・ワンのバスケ勝負ですよ。修三さん、俺がシュートしようとしたらゴールぶっ壊しちゃって」
「あれこそ事故だ。ちょっと俺の体がぶつかったらあのザマだぞ。公園管理所に訴えてもよかったんだぜ」
「思い切り体重かけてど真ん中からタックルしてたじゃないですか。器物破損ですよ」
「器物破損だって言うなら、お前、次のボウリング勝負で、ボール叩きつけてレーンぶっ壊しただろ!」
「あの時は足が滑ったんですよ。サイズの合うシューズが無くてね」
「嘘つけェ。お前、形勢不利だったからわざと試合を無しにしたんだろ?」
「投げようとするたびにネチネチ詩女のこと耳元で言われれば、誰だって動揺しますよ!」
「知らねェなァ。って言うか、そりゃお前の克己心が足りねえんだ」
「何を抜け抜けと……俺だって千恵子さんのこと、もっと知ってれば……」
「で、その次の釣り勝負ってのは何だったんだ? 人をバカにしてンのか?」
「修三さん、確かあの時、もう疲れたからそうしようって言ったじゃないですか。そもそも、その次にパチンコ勝負を持ちかけてきたのは修三さんですよ」
「俺は、あの時の嬉しそうなお前さんの顔を忘れてないぞ。おおかた詩女ちゃんに止められてご無沙汰だったんだろ?」
「あのせいで、俺らすっからかんになっちまったんですよ!」
「だったらその後、ツケで出来る雀荘があるからって麻雀勝負を持ちかけるこたァねェだろうが!」
「修三さん、これでパチンコの負け分を取り戻してやるって勇んでませんでしたっけ?」
「お前だって鼻歌歌ってただろうが! その上、お前がメンツ合わせに連れてきた君寧っての、あれ、雀プロだったろ?」
「プロってほどじゃないですよ。あの店でたまに代打ちして、ナマなガキに泣き見せてるくらいで」
「立派なプロじゃねェか」
「そう言う修三さんが呼んだ萌木ってガキ、あんなに勝ちまくってましたけど、あれ、イカサマだったんじゃないですか?」
「プロとイカサマ野郎に麻雀で勝てるわけねェだろうが!」
「そーですよ! おかげですっからかん! それどころか早くも借金生活っすよ!」
「馬鹿! そりゃ俺もだ!」
「修三さんもですか! あははははははははははははは!」
「何がおかしい! 俺だってそりゃおかしいとも! がはははははははははははははあ!」
 ここは、繁華街のキャバレー。京次と修三の最終決戦の場だ。
 互いの内臓の強さを競い合うための飲酒勝負を、どちらが持ちかけたのか、すでに二人とも憶えていない。
 けばけばしい照明に照らされたテーブルの上には、何十本ものボトルが無造作に転がっている。これを、たった二人で空けてしまったとは、隣で酌をしていたホステス以外、誰も信じないだろう。
 さすがに、京次の端正な顔も、修三の岩石のような顔も、赤く染まっている。顔中を口にして笑っているところを見ると、二人ともかなり酒が回っているらしい。
「ひーっ、ひーっ、ひーっ、きょ、京次、お前オケラかよっ!」
「修三さんだって文無しじゃないすか! ひゃはははははは! ど、どどどどーすんですか、これからっ!」
「ふた、ふた、二人揃って無一文かよッ! ぶわっはははははははははははははははははははははははははは!」
「わ、わわわ、笑ってる場合ですか? 知りませんよ俺は。えーえーえーえー知りませんともさあ。あははははははははははははは♪」
「ねえ、それじゃ、このお店のお勘定は?」
 艶っぽい女の声が、二人に訊いてくる。
「いや、何、ツケといてくれ。あとで女房にうまいこと言って小遣いもらって来てやるから」
「ま、修三さんたら、うちにはそんな余裕ないこと、分かってるくせに」
 穏やかなその声に、修三の動きが、ピタリと止まった。
 恐る恐る、声の方向を見る。
 そこには、あどけない顔に、にこやかな笑みを浮かべた千恵子が立っていた。
「ねーえ、京次ぃ。京次も、このお店のお勘定、私に回すつもりだったわけぇ?」
 千恵子のすぐ隣では、詩女が、京次を後ろから見事なチョークスリーパーで落としにかかっている。京次は赤かった顔を赤黒く変色させながら何度もタップしているが、その場に存在しないレフェリーは試合を中断することが出来ない。
 今まで京次と修三の隣に座っていたホステスたちは、この二人の夫人の迫力に、とっくに姿を消していた。
「きょ、京次、逃げられそうか?」
 修三の声に、しかし、もはや京次は答えられない様子だ。その瞳はすでに空ろで、生あるものはけして見ることのできないはずの天上のパライソを見つめている。
「し、しかし……俺は、ここでやられるわけには……」
「ねえ、修三さん。京次さんよりも、私とお話しましょうよ」
 うふっ、とその少女のような顔に笑みを浮かべ、恥ずかしそうに頬に手を当てながら、千恵子がゆっくりと体重を片方の足に移し始めた。
 この、千恵子のさりげない体重移動が終了すれば――もはや修三に勝ち目は無い。
「すっ……すまああああああああああああああああああああああああああああん!」
 がっくりと四肢から力を抜いた京次と、最愛の妻にそう叫んでから、修三は、一瞬にしてその巨体を翻し、テーブルを飛び越えた。
 そして、何事かと集まってきた不幸な客や従業員たちを、葛城流柔拳術で次々と四方に投げ飛ばし、一陣の暴風のように店から駆け出る。
「ま、失礼しちゃうわ」
 ぷー、と千恵子は頬を膨らませた。
「あの、千恵子さん。追いかけなくていいんですか?」
 すっかり意識を失った京次の首から手をほどきながら、詩女は言った。
「ええ。修三さんは、どうせすぐ、私のところに戻ってきてくれるもの」
「は、はあ……」
「修三さんと京次さんは、どうやら同点って感じだったみたいだけど」
「……」
「一応、私たちの方が少しだけ結婚生活は長いし、詩女ちゃんに、偉そうなこと言わせてもらって、いいかな?」
「え、あ、はい」
「ごめんね」
 ぺろ、と千恵子が舌を出し、続ける。
「京次さんのこと、ショックだったのは分かるわ。でもね、泣くほど悔しかったってことは、それだけ京次さんの事、好きだってことでしょ?」
「……はい」
「だったら、信じて待ってあげてもいいんじゃないかな?」
「……」
「多分、新婚さんの時みたいに、京次さんの全部を、詩女ちゃんがもらっちゃうことは、もうできないと思うわ。でもね、それは、京次さんも同じよ。だって、貴時ちゃんがいるもんね」
「……」
「それから、貴時ちゃんが、京次さんにどんな思いを抱いても、多分、それは自然なことよ。だから、変な風に押さえ込まないほうがいいと思う」
「……うん、分かってます」
 詩女は、肯き、続けた。
「それに、心配もしてません。貴時はすごくいい子ですから」
「そうよね。詩女ちゃんには、やっぱり必要の無いお説教だったみたい」
 えへへ、と笑う千恵子に、詩女は、にっこりと微笑んで見せた。
 そして、椅子に座り、ぐったりとなった京次に膝枕をしてやる。
「京次……私、待っててあげるからね……」
 そんな詩女の声を、京次は、幸せな夢の中で聞いたような気がした。